南九州、宮崎・鹿児島

伯父から九州旅行の話をきいて、僕は信じられませんでした。「夏休みにみんなで九州に行く」と云うのです。川崎からフェリーに乗って行くと云うのです。

50歳になる今年、九州へ始めて行った小学4年生のときのことを、できる限り思いだして記録しておこうと思います。

1日目 日本カーフェリー

その日の朝、僕たちは伯父の家から車で出発しました。平日の8時前なのでかなり渋滞してました。鎌倉街道を上り横浜駅前を通って東神奈川から首都高横羽線へ入って、大師で降りました。浮島のフェリーターミナルに到着したのは、まだ9時頃でした。出港は10時、フェリーに乗って僕たちが泊る部屋を一生懸命探しました。でも小部屋ではなく、青函連絡船のような広い座敷が僕たちのスペースでした。

その船は日本カーフェリーの「フェニックス」という船でした。川崎から宮崎の日向まで25時間掛かると云います。九州上陸は翌日の昼前。船のデッキからは羽田空港の滑走路への着陸灯が見えました。連続してストロボライトが光るやつです。

船内には大きな大きな地図を表示したボードがあり、今何処を航海してるのか分かる仕掛けがありました。出港したとき、僕たちははしゃぎまわりましたが、東京湾を出て南下しているうちに、揺れがひどくなり次第に船酔いが始まります。何でも台風が近づいてるらしく、午後から夜にかけて大揺れに揺れました。

僕は何度もトイレい駆け込み、胃液を吐き続けました。船のレストランの営業が終わる直前、母が「何か無理にでも食べないと体に悪い」と云うので、無理やりハンバーグを食べましたがすぐにもどしてしまいます。その後、深夜のフェリーは大揺れ。廊下を歩くことも困難なぐらい。苦しい夜は終わらないのでは、と思うぐらい永く続きました。

2日目 日向

「九州がみえるから起きなさい」と起こされてデッキに出て見ると、緑の濃い陸地が見えました。台風は過ぎ去ったようですが、鉛色の空と海。気分はよくありませんが、吐くものはありません。時間は14時を過ぎており、台風の影響で遅れたとのこと。

フェリーターミナルから車で30分ほど、美々津の民宿に到着。屋号は確か「舟出」。時間の遅いし、みんな体調が良くないので観光などは止めて民宿へ直行した次第です。民宿の部屋からは日向灘と日豊本線の線路が見えました。その線路を蒸気機関車が走ってきたのには驚きました。僕はそのとき、本物のの蒸気機関車を見ました。すごい音と大量の黒煙が、迫力満点でした。

夕食は海の幸が溢れんばかりにテーブルの上に並べられましたが、当時僕は好き嫌いが激しく取り立てて美味しい物を食べたという記憶はありません。醤油が甘かったのには驚きました。

3日目 青島・鵜戸神宮

朝民宿をスタートすると空は快晴。宮崎市内へ向かいます。空の色と海の色、それと山の緑色が鮮やか。その色は今でも目に焼き付いてます。それと南国の樹木。ソテツとかフェニックスとか。日常とま全く違うその情景は、全く夢のよう。

青島に到着し、ここでは海水浴。それと鬼の洗濯板での磯遊び。熱帯魚みたいなカラフルな小魚がたくさんいました。海は綺麗だし砂浜は真っ白だし、最高の海水浴でした。

お昼は青島の食堂でラーメンです。そのラーメンのスープの色を見てまた驚きました。何と白いのです。東京系のラーメンした食べたことのない僕たちには大きな衝撃でした。

午後はさらに車で南下。青い日向灘と鬼の洗濯板を見ながら走るドライブは最高でした。その海沿いの道を走って鵜戸神宮に到着。その神社は海岸の崖にへばりつくように建てられた神社です。その海を見下ろす境内から10mほどの岩の上に小さなくぼみがあり、小さな焼き物みたいな玉を投げ入れると幸運になると云います。僕は左利きですが、結局ひとつも入りませんでした。その鵜戸神宮で貰ったおつりにビックリ。板垣退助の百円札でした。

それから僕たちは都井岬へ。そこの民宿黄金荘がその日の宿。民宿の庭で、眼下に広がる夕方の海の絵を描きました。その民宿は農家の一軒家で、目の前は海。あとは何もありません。朝まで蚊に悩まされました。

4日目 海水浴と桜島

黄金荘で朝目覚めて散歩にいきました。何でもここには野生の馬がいるらしく、道は糞だらけ。

この日の空ははなぐもり。車で暫く走り、志布志あたりで昨日に引き続き海水浴。昨日と比べて天気がイマイチなので、あまり面白くありませんでしたが、その海水浴場脇には線路があり、再び蒸気機関車の登場です。今度はさらに至近距離でその雄姿を見ることはできました。海水浴の間に2本のSLがやってきました。

その日の昼食は覚えてません。それから僕たちは桜島入り。溶岩台地のなかの展望台で噴煙を吐きだす桜島を眺めました。その日の宿は桜島温泉の旅館です。2泊続けて民宿だったので、多少ランクアップしました。

5日目 指宿温泉

桜島からはフェリーで鹿児島市内へ入ります。5日目ともなると、車はドロだらけ。それに火山灰の影響もあるのか、ガソリンスタンドで洗車しました。それから錦江湾に沿って南下。途中大きな石油備蓄基地がありました。当時の日石の施設でした。

この日の昼食は池田湖のそばで「流しそうめん」を食べました。テーブルの上に水槽があり水が廻ってるところへそうめんを浮かべ、箸ですくって食べるやつ。池田湖畔からは大きな富士山のような綺麗な山が見えました。開聞岳という山です。それから体長1m以上の大鰻が何匹かいて、その大きさに驚きました。

この日の宿は指宿の国際観光ホテル。いちどホテルへ行きそれから指宿町営という砂風呂に入るため、海水浴場へ。浴衣を着て砂の上に寝て、熱い砂をかけてもらいました。かかととかお尻が熱かった。ホテルへ戻ってからの夕食はガーデンバーベキュー。大人たちは生ビールの美味しさをしきりに語ってました。

6日目 霧島温泉

指宿の朝は曇り空。僕たちは長崎鼻などを観光してから再び鹿児島市内方面へ北上。多分僕は寝てたのでしょう。そのときの記憶がありません。かなり早い時間に霧島山上ホテルに到着。その広いホテル内をあちこち歩き廻ったのを覚えてます。霧島は山の中だったので、翌日は早く起きてクワガタをとろうなんて云ってました。

7日目 日向へ移動

7日目は九州最終日。霧島のホテルから車でスタート。深い山の中を走り、熊本県に入りました。当時、水俣病の記憶から熊本県は公害の県との印象があり、「早く熊本県を出ようよ」なんて云ったのを覚えてます。

昼過ぎには日向に到着。この日、何を観光する予定だったかは知りませんが、かなり早い時間に日向のフェリーターミナルに到着。みんな疲れてたのでよう。ターミナルの待合室で半日を過ごしました。時間がたくさんあったので、少年チャンピオンとかサンデーとかを買って読みました。僕が本格的に少年漫画を読んだのは、この時が始めてでした。

川崎行きの大型フェリーの名前は「セントポーリア」出港はたしか16時頃。船のなかの大広間に入って暫く熟睡。夜なかに目覚めて大浴場に行きました。帰りの船は殆ど揺れた記憶がありません。

8日目 帰路

旅行最後の日はフェリーのなかで目覚めました。行きの船とは雲泥の差。快適な海の旅です。天気も快晴で真っ蒼な大海原を船は東へ進みます。トビウオがいっぱい泳いでました。というか飛んでました。

夕方ほぼ定刻にフェリーは川崎の到着。接岸するときデッキから見た夕焼けが印象的でした。すごく永かったような、あっという間だったような。僕にとって始めての大旅行は終わりました。連れてってくれた伯父に感謝します。
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夏の天元台、美味しかった「すきやき弁当」

天元台は山形県の南部にあり、福島県との県境に近い山の中にあります。7月の上旬、僕がその季節外れのゲレンデに行ったのは小学生のとき、林間学校みたいな学校の行事でした。

僕たちは先生に連れられて京浜東北線の桜木町駅から上野駅まで行き、上野駅の地上ホームへの階段を降りていきました。当時の上野駅では東北・常磐方面や上信越方面へ向かう特急電車や急行列車がたくさん並び、僕たちはそのなかの特急「やまばと1号」山形行きに乗りました。485系と云ったと思います。ボンネットタイプの特急電車で、食堂車もついてました。

停車駅は、大宮・宇都宮・郡山・福島、そして下車する米沢だったとの記憶。上野駅を10時ぐらいに発車して米沢駅には13時ごろの到着。当時の東北本線は線路の質が悪く、電車は大地震のように揺れ、気分を悪くした友達がたくさんいました。僕も体調が良くなく、母がつくってくれたお弁当を何とか飲み込んだのを覚えてます。

米沢駅前から貸切バスに乗り、白布温泉の先のロープウェイ乗り場で降りました。そこからロープウェイで登っていった先が天元台です。その広い高台にはホテルが1軒とロッジ1軒があり、僕たちはホテルに何泊か泊まりました。到着した日は曇り空でしたが、翌朝は快晴。僕は始めて夏山の清清しさを知りました。強い日差しと冷たいそよ風、風が止むと蒸せるような草原の匂い。イワツバメがたくさん飛んでました。

僕たちはリフトを3本ほど乗って、さらに高い山の方にハイキングに行きました。昔のことなので、一人乗りの遅いリフトです。僕が始めてリフトに乗ったときです。リフトを降りるとそこはもう、背丈の低い木か熊笹しかありません。そんななかを1時間ほど歩いて、雪渓に出ました。大きな雪渓です。夏に雪があるとは思ってもみません。ほんとに驚きました。僕たちは大喜びでシャーベットのような雪を丸めて雪合戦をして遊びました。

楽しい林間学校はあっという間に終わり、僕たちは米沢駅から上野行きの特急「やまばと」に乗りました。行きと同様電車は大揺れでしたが、そこで配られたお昼のお弁当、米沢駅の駅弁「すきやき弁当」の美味しさが今でも忘れられません。そのころは米沢牛など知りませんでしたが、小学生の僕でも「肉が美味しい」と思いました。すきやきもさることながら、沢庵が絶品でした。あれから30年以上経ちますが、あれより美味しい沢庵にはお目にかかったことはありません。

それから何度か車で東北へ行った際、わざわざ米沢によって駅弁を買い求めたことがあります。昔と違って、「米沢牛」を前面に出した色々な種類の駅弁があり、いくつか食べましたが、あの日の感動は味わえませんでした。過去になればなるほど、記憶にある「美味しかった」は、益々美味しくなることに、最近気づきました。
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はじめてのツーリング

夏休みの最後の日だったと思います。CB50が納車されて一週間、それまで町内だけを走ってましたが、初めてツーリングらしきものに出かけました。行先は葉山。親戚のひとつ年上のMちゃんとふたりで、吉野町三丁目から鎌倉街道を走り始めました。

Mちゃんのバイクはゴリラ。そのあとについて走ります。速度は50km/hぐらい。自転車と違って、ペダルを踏まなくても風のように走ります。上大岡駅前を過ぎ、港南中央・七曲・京浜女子大前と快調に走ります。Mちゃんは何故か交番の前だけゆっくりになります。そうです、原付の制限速度は30km/hでした。

北鎌倉から横須賀線の踏切を渡り、切通しを越えて鎌倉へ入ります。鶴岡八幡の大きな鳥居の前を右折して海岸へ向かい、滑川の交差点を左折し湘南道路へ。海沿いの快適な道。夏の日差しと心地よい潮風が、ツーリング気分を盛上げます。当時の原付にはヘルメット着用の義務はなく、僕たちも当然ノーヘルです。バイクの素晴らしさに始めて感動したときでした。

逗子の料金所では、確か20円か30円払いました。渚橋を渡ったところを右折し、葉山マリーナのちょっと先の右へ入る路地へ。するとそこはもう、砂浜のある海辺でした。

30分ほど海を眺めてから、同じ道を通って帰ってきました。Mちゃんと分かれ、家へ帰ってきてみるとまだ午前中です。たった3時間ほどで、こんなに楽に、あんな遠くまで行ってこれました。世界がすごく広がった気がしました。
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修善寺ツーリング

原付バイクに乗り始めて一ヶ月もたっていませんが、当時一番の友達だったU君と、始めての泊まりがけツーリングに行くことにしました。泊まるところは伊豆半島の中ほど、修善寺ユースホステルです。当時のユースの規則通り、往復はがきで予約しました。

連休1日目の土曜日の朝8時、蒔田公園(今では首都高花之木ICのところ)でU君と待合わせ。空は曇天ですが、何とかもちそうです。U君は自分で色を付けた紫色のドカヘルをかぶってます。U君は、必ずヘルメットをかぶるという条件で、親にバイクを許してもらいました。当時僕はノーヘルでした。U君は僕よりバイク暦は長いですが、横浜市外へバイクで行くのは始めてだといってました。

Y高(横浜商業高校)の前から県道平戸桜木町線を南下し、山谷からR1の旧道に入ります。平戸のコカコーラ工場の前を通り、戸塚の不動坂上からワンマン道路に入ります。ワンマン道路とは、昔の総理大臣吉田茂が大磯の別荘へ行く途中、戸塚駅前の踏切で待たされることに腹を立て、不動坂上から横浜新道へ無理やり繋げるよう、造った道です。

横浜新道の戸塚警察署前、原宿(ドリームランド入口)を通り、影取からR1(藤沢バイパス)と別れ藤沢橋方面へいきます。今でいう箱根駅伝のルートです。R134へ出たころは、雲が厚くなり風がでてきました。片側1車線で万年渋滞のR134の路肩を走って相模川を渡ります。今の湘南大橋ができた直後で、昔のコンクリート製の橋がまだ並行して残ってました。

さすがに西湘BPには入りません。R1東海道を小田原を目指してゆっくり走ります。大磯あたりでは、街道沿いに松並木が残っており、遠いところへ来たと思いました。酒匂川を渡り小田原市内を抜けて、東海道線のガードをくぐらず左折してR135に入ります。すぐに海岸線の道になりましたが、鉛色の海でした。

真鶴道路(当時は旧道のみ)の料金所を過ぎたころから、雨が降ってきました。U君も僕もツーリングには当然素人で、雨具なんか持ってません。かまわずそのまま走ります。湯河原から海沿いのビーチラインに入ったら、大きなバイクに乗ったお兄さんから「ここは原付はダメ!」と大声で注意されました。ちょっと戻り、一本山側のR135を走ります。その頃雨は本降りです。

熱海の市街を抜けて、網代あたりまで行っても雨脚は全く弱まりません。グローブなんかしてない手から冷えていきました。そして体中びっしょりで、芯から冷えてきました。いくつかあるトンネルに入ると車の排気ガスで暖かく雨粒も襲ってこないので、極楽のようでした。そしてやっと雨が弱くなってきたころ、伊東駅前へ到着しました。そしてしばらく雨宿りです。どのくらい待ったでしょうか、やっと雨があがりました。まだ体はずぶぬれで寒いですが、修善寺方面を目指して走り始めました。

修善寺の温泉街に入って地図を見ながら、ようやく修善寺YHにたどりつきました。まわりは別荘地のようです。永かったような気もしましたが、時間はまだ3時前でした。荷物を預かってもらい、僕たちは修善寺の温泉街へ観光に行きました。そのころは既に日差しがあり、着ている服もだいぶ乾いてきました。観光といっても、ゲームセンターでスマートボールをやった記憶しかありません。

修善寺YHでの食事・風呂・部屋などはよく覚えてません。ミーティングで、Pさんが何か宗教っぽい話をしてたのだけは覚えてます。

翌朝は再び曇天でした。昨日に引き続き肌寒く、まっすぐ帰ることにしました。R136を三島に向かって走ります。日曜の朝のすいてる道を、僕もU君もフルスロットルで走ります。メータ読みで80km/hは超えてました。5速でタコメーターはずっとレッドゾーン付近。三島からはR1東海道で箱根を登ります。ここも急カーブは別にして、ずっとフルスロットルです。箱根峠の頂上で休憩したとき、銀色だったエキパイが茶色になっているのに気づきました。

ここまで書いて申し訳ありませんが、この後の記憶がありません。というか、全体的に食事や給油などの記憶がまったくありません。30年ちかく前のことなので、当たり前かもしれませんが。

U君とのツーリングはこれっきりなので、最高のツーリングとはいえなかったのかもしれません。天気の悪さと準備のまずさ。まあ、覚えてるところだけでも記録できて良かったと思います。
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スキーバスの添乗員、昔のはなし。

今年は冬の到来が早いようで、各地のスキー場が続々とオープンしてます。

この時期になるといつも思い出します。1シーズンだけ、僕はスキーバス添乗員のアルバイトをやりました。行き先はいつも斑尾でした。

夜の9時頃、旅行会社から受取った名簿を持って、横浜駅西口の指定場所でお客様を待ちます。それらしいお客様がくると声をかけます。「○○ツアーですか?では、このバスで一旦新宿までいって頂いて、そこでバスを乗り換えて頂きます。」 毎回、10人~30人程度を乗せて横浜を出発です。

横浜駅西口ICから首都高にのり、1号横羽線を北上。浜崎橋から都心環状外回りに入り、三宅坂から4号新宿線で、新宿で降ります。夜の10時過ぎなので渋滞はありません。大晦日だけは、都心環状線から見えた東京タワーのイルミネーションがきれいでした。

新宿では、さらに大勢のお客様がお待ちです。その場で斑尾行きお客様の名簿を受取り速攻で座席表を作成します。そして再びお客様へのご案内です。「○○ツアーですか?斑尾行きはこのバスになります。座席は入口に貼ってありますので、それに従って下さい。」

ほぼ、満席の状態で出発です。新宿から山手通りを北上し、R254川越街道、途中を右折して高島平へ。走り出すと、お客様へのご挨拶と点呼、そして決められた通りの連絡事項を説明します。バスは新大宮バイパスを通り中山道を北上していきます。当時開通してた前橋まで、関越道を使うこともありましたが、R17をよく走りました。

最初のトイレ休憩は、熊谷の水戸屋です。お客様へ出発時間をお伝えし扉をあけますが、遅れて戻られる方が必ずいらっしゃいます。毎回、全員が戻ってくるまでドキドキです。運転手さんは2人ペアで、交代しながら行きます。運転手の後ろの席が仮眠スペースになってます。だいたい、40~50才ぐらいのベテランの気のいい方たちでした。

高崎で、バスはR17からR18へ入ります。しばらく行くと安中ですが、安中の大きな工場の夜景が空に浮かぶラピュタのようでした。そして、横川の「おぎのや」で休憩です。このアルバイトで知りましたが、この手のドライブインは24時間営業してて、観光バスの乗務員・添乗員は、無料で食事ができます。アルコール以外、なんでもありでした。僕も腹いっぱい頂きました。

この先は碓氷バイパスに入ります。ナトリウム灯に照らされた、粉雪が舞うアスファルト上をゆっくりゆっくり登っていきます。碓氷峠を登りきり、料金所を過ぎると軽井沢です。路面は除雪されてますが、それ以外はうっすらと雪が積もってます。この先当分山道はありません。バスは深夜の国道を走り続けます。時折、前方からトラックの集団がやってきては通りすぎ、運転手さんはライトをハイビームに戻します。

つぎのトイレ休憩は戸倉です。既に時間は朝の4時を過ぎ、降りるお客様はほとんどいらっしゃいません。それから長野市内をバイパスで抜けていきます。いつのまにか、国道はR18からR19になっており、アップルラインを走ります。途中豊野でR19を右折しますが、そこにあるガソリンスタンドの表示、「海あっち、山こっち」が印象的でした。

その先は、千曲川に沿った田舎道を走っていきます。空がだんだん明るくなってくると、周り一面銀世界です。それから飯山市街に入ると左折し、山道に入っていきます。その手前で、バスはタイヤチェーンをつけますが、運転手さんたちの、その手際の良さには関心しました。ここから先は雪道です。スピードはさらに遅くなり、雪面を噛締めるように山道を登っていきます。気がつくと空は快晴で東の方はオレンジ色です。

山道を登りきると、バスは斑尾のペンション街に到着し、ひと組、ふた組と、お客様を降ろしていきます。最後には、運転手さんたちと僕だけになり、指定のペンションに到着します。そこで、運転手さんは東京へ帰る時間まで仮眠し、僕はリフト券を借りスキーをはじめます。但し午前中だけで、午後は帰りの添乗業務の準備です。

帰りも同じ様な手順で、お客様を集めて東京へ向い、新宿と横浜で解散します。

交通費・食費・宿泊費・リフト代無料のアルバイトでしたが、バイト代は1回2,000円でした。やはりスキーはひとりでは面白くないし、アルバイト代はその日の昼食と煙草・コーヒーでなくなります。「スキーはお金を使ってやるもんだ。」と、つくづく思ったシーズンでした。
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