南九州、宮崎・鹿児島

伯父から九州旅行の話をきいて、僕は信じられませんでした。「夏休みにみんなで九州に行く」と云うのです。川崎からフェリーに乗って行くと云うのです。

50歳になる今年、九州へ始めて行った小学4年生のときのことを、できる限り思いだして記録しておこうと思います。

1日目 日本カーフェリー

その日の朝、僕たちは伯父の家から車で出発しました。平日の8時前なのでかなり渋滞してました。鎌倉街道を上り横浜駅前を通って東神奈川から首都高横羽線へ入って、大師で降りました。浮島のフェリーターミナルに到着したのは、まだ9時頃でした。出港は10時、フェリーに乗って僕たちが泊る部屋を一生懸命探しました。でも小部屋ではなく、青函連絡船のような広い座敷が僕たちのスペースでした。

その船は日本カーフェリーの「フェニックス」という船でした。川崎から宮崎の日向まで25時間掛かると云います。九州上陸は翌日の昼前。船のデッキからは羽田空港の滑走路への着陸灯が見えました。連続してストロボライトが光るやつです。

船内には大きな大きな地図を表示したボードがあり、今何処を航海してるのか分かる仕掛けがありました。出港したとき、僕たちははしゃぎまわりましたが、東京湾を出て南下しているうちに、揺れがひどくなり次第に船酔いが始まります。何でも台風が近づいてるらしく、午後から夜にかけて大揺れに揺れました。

僕は何度もトイレい駆け込み、胃液を吐き続けました。船のレストランの営業が終わる直前、母が「何か無理にでも食べないと体に悪い」と云うので、無理やりハンバーグを食べましたがすぐにもどしてしまいます。その後、深夜のフェリーは大揺れ。廊下を歩くことも困難なぐらい。苦しい夜は終わらないのでは、と思うぐらい永く続きました。

2日目 日向

「九州がみえるから起きなさい」と起こされてデッキに出て見ると、緑の濃い陸地が見えました。台風は過ぎ去ったようですが、鉛色の空と海。気分はよくありませんが、吐くものはありません。時間は14時を過ぎており、台風の影響で遅れたとのこと。

フェリーターミナルから車で30分ほど、美々津の民宿に到着。屋号は確か「舟出」。時間の遅いし、みんな体調が良くないので観光などは止めて民宿へ直行した次第です。民宿の部屋からは日向灘と日豊本線の線路が見えました。その線路を蒸気機関車が走ってきたのには驚きました。僕はそのとき、本物のの蒸気機関車を見ました。すごい音と大量の黒煙が、迫力満点でした。

夕食は海の幸が溢れんばかりにテーブルの上に並べられましたが、当時僕は好き嫌いが激しく取り立てて美味しい物を食べたという記憶はありません。醤油が甘かったのには驚きました。

3日目 青島・鵜戸神宮

朝民宿をスタートすると空は快晴。宮崎市内へ向かいます。空の色と海の色、それと山の緑色が鮮やか。その色は今でも目に焼き付いてます。それと南国の樹木。ソテツとかフェニックスとか。日常とま全く違うその情景は、全く夢のよう。

青島に到着し、ここでは海水浴。それと鬼の洗濯板での磯遊び。熱帯魚みたいなカラフルな小魚がたくさんいました。海は綺麗だし砂浜は真っ白だし、最高の海水浴でした。

お昼は青島の食堂でラーメンです。そのラーメンのスープの色を見てまた驚きました。何と白いのです。東京系のラーメンした食べたことのない僕たちには大きな衝撃でした。

午後はさらに車で南下。青い日向灘と鬼の洗濯板を見ながら走るドライブは最高でした。その海沿いの道を走って鵜戸神宮に到着。その神社は海岸の崖にへばりつくように建てられた神社です。その海を見下ろす境内から10mほどの岩の上に小さなくぼみがあり、小さな焼き物みたいな玉を投げ入れると幸運になると云います。僕は左利きですが、結局ひとつも入りませんでした。その鵜戸神宮で貰ったおつりにビックリ。板垣退助の百円札でした。

それから僕たちは都井岬へ。そこの民宿黄金荘がその日の宿。民宿の庭で、眼下に広がる夕方の海の絵を描きました。その民宿は農家の一軒家で、目の前は海。あとは何もありません。朝まで蚊に悩まされました。

4日目 海水浴と桜島

黄金荘で朝目覚めて散歩にいきました。何でもここには野生の馬がいるらしく、道は糞だらけ。

この日の空ははなぐもり。車で暫く走り、志布志あたりで昨日に引き続き海水浴。昨日と比べて天気がイマイチなので、あまり面白くありませんでしたが、その海水浴場脇には線路があり、再び蒸気機関車の登場です。今度はさらに至近距離でその雄姿を見ることはできました。海水浴の間に2本のSLがやってきました。

その日の昼食は覚えてません。それから僕たちは桜島入り。溶岩台地のなかの展望台で噴煙を吐きだす桜島を眺めました。その日の宿は桜島温泉の旅館です。2泊続けて民宿だったので、多少ランクアップしました。

5日目 指宿温泉

桜島からはフェリーで鹿児島市内へ入ります。5日目ともなると、車はドロだらけ。それに火山灰の影響もあるのか、ガソリンスタンドで洗車しました。それから錦江湾に沿って南下。途中大きな石油備蓄基地がありました。当時の日石の施設でした。

この日の昼食は池田湖のそばで「流しそうめん」を食べました。テーブルの上に水槽があり水が廻ってるところへそうめんを浮かべ、箸ですくって食べるやつ。池田湖畔からは大きな富士山のような綺麗な山が見えました。開聞岳という山です。それから体長1m以上の大鰻が何匹かいて、その大きさに驚きました。

この日の宿は指宿の国際観光ホテル。いちどホテルへ行きそれから指宿町営という砂風呂に入るため、海水浴場へ。浴衣を着て砂の上に寝て、熱い砂をかけてもらいました。かかととかお尻が熱かった。ホテルへ戻ってからの夕食はガーデンバーベキュー。大人たちは生ビールの美味しさをしきりに語ってました。

6日目 霧島温泉

指宿の朝は曇り空。僕たちは長崎鼻などを観光してから再び鹿児島市内方面へ北上。多分僕は寝てたのでしょう。そのときの記憶がありません。かなり早い時間に霧島山上ホテルに到着。その広いホテル内をあちこち歩き廻ったのを覚えてます。霧島は山の中だったので、翌日は早く起きてクワガタをとろうなんて云ってました。

7日目 日向へ移動

7日目は九州最終日。霧島のホテルから車でスタート。深い山の中を走り、熊本県に入りました。当時、水俣病の記憶から熊本県は公害の県との印象があり、「早く熊本県を出ようよ」なんて云ったのを覚えてます。

昼過ぎには日向に到着。この日、何を観光する予定だったかは知りませんが、かなり早い時間に日向のフェリーターミナルに到着。みんな疲れてたのでよう。ターミナルの待合室で半日を過ごしました。時間がたくさんあったので、少年チャンピオンとかサンデーとかを買って読みました。僕が本格的に少年漫画を読んだのは、この時が始めてでした。

川崎行きの大型フェリーの名前は「セントポーリア」出港はたしか16時頃。船のなかの大広間に入って暫く熟睡。夜なかに目覚めて大浴場に行きました。帰りの船は殆ど揺れた記憶がありません。

8日目 帰路

旅行最後の日はフェリーのなかで目覚めました。行きの船とは雲泥の差。快適な海の旅です。天気も快晴で真っ蒼な大海原を船は東へ進みます。トビウオがいっぱい泳いでました。というか飛んでました。

夕方ほぼ定刻にフェリーは川崎の到着。接岸するときデッキから見た夕焼けが印象的でした。すごく永かったような、あっという間だったような。僕にとって始めての大旅行は終わりました。連れてってくれた伯父に感謝します。
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夏の天元台、美味しかった「すきやき弁当」

天元台は山形県の南部にあり、福島県との県境に近い山の中にあります。7月の上旬、僕がその季節外れのゲレンデに行ったのは小学生のとき、林間学校みたいな学校の行事でした。

僕たちは先生に連れられて京浜東北線の桜木町駅から上野駅まで行き、上野駅の地上ホームへの階段を降りていきました。当時の上野駅では東北・常磐方面や上信越方面へ向かう特急電車や急行列車がたくさん並び、僕たちはそのなかの特急「やまばと1号」山形行きに乗りました。485系と云ったと思います。ボンネットタイプの特急電車で、食堂車もついてました。

停車駅は、大宮・宇都宮・郡山・福島、そして下車する米沢だったとの記憶。上野駅を10時ぐらいに発車して米沢駅には13時ごろの到着。当時の東北本線は線路の質が悪く、電車は大地震のように揺れ、気分を悪くした友達がたくさんいました。僕も体調が良くなく、母がつくってくれたお弁当を何とか飲み込んだのを覚えてます。

米沢駅前から貸切バスに乗り、白布温泉の先のロープウェイ乗り場で降りました。そこからロープウェイで登っていった先が天元台です。その広い高台にはホテルが1軒とロッジ1軒があり、僕たちはホテルに何泊か泊まりました。到着した日は曇り空でしたが、翌朝は快晴。僕は始めて夏山の清清しさを知りました。強い日差しと冷たいそよ風、風が止むと蒸せるような草原の匂い。イワツバメがたくさん飛んでました。

僕たちはリフトを3本ほど乗って、さらに高い山の方にハイキングに行きました。昔のことなので、一人乗りの遅いリフトです。僕が始めてリフトに乗ったときです。リフトを降りるとそこはもう、背丈の低い木か熊笹しかありません。そんななかを1時間ほど歩いて、雪渓に出ました。大きな雪渓です。夏に雪があるとは思ってもみません。ほんとに驚きました。僕たちは大喜びでシャーベットのような雪を丸めて雪合戦をして遊びました。

楽しい林間学校はあっという間に終わり、僕たちは米沢駅から上野行きの特急「やまばと」に乗りました。行きと同様電車は大揺れでしたが、そこで配られたお昼のお弁当、米沢駅の駅弁「すきやき弁当」の美味しさが今でも忘れられません。そのころは米沢牛など知りませんでしたが、小学生の僕でも「肉が美味しい」と思いました。すきやきもさることながら、沢庵が絶品でした。あれから30年以上経ちますが、あれより美味しい沢庵にはお目にかかったことはありません。

それから何度か車で東北へ行った際、わざわざ米沢によって駅弁を買い求めたことがあります。昔と違って、「米沢牛」を前面に出した色々な種類の駅弁があり、いくつか食べましたが、あの日の感動は味わえませんでした。過去になればなるほど、記憶にある「美味しかった」は、益々美味しくなることに、最近気づきました。
23:46 | ツーリングとドライブ | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

急行 十和田52号

この上野発常磐線経由青森行き臨時急行列車に乗ったとき、僕は中学2年生でした。

上野駅20番線16:16発車だったと思います。どうして覚えているかというと、僕にとって初めて北海道へ行くという大旅行の始まりで、しかも弟を連れた2人での旅行だったからです。日付は確か夏休み後半の8月23日でした。

母がつくってくれたおにぎりをもって、上野駅20番線についたのは、一番暑い14時ごろ。青森までの約12時間、自由席で席を確保するには、かなり早めにいって並ぶ必要があると思ったからです。ホームの各所には、「16:16 十和田52号青森行き自由席○号車」と書かれた木札がロープから吊ってありましたが、ホームにはこれから北海道へ渡りそうな人はだれもいません。当時の列車案内板はこのような方式で、色々な列車の札がどのホームにもいっぱいぶら下がってました。今では当たりまたえのコンピューターと連動した表示板なんて、当時は夢にも出てこない、想像もつかないものでしたね。

今はもうありませんが、20番線は上野駅で一番東よりの地上ホームで今では地下の新幹線ホームへのエスカレータあたりだと思います。その20番線ホームから外を見下ろすと上野のバイク街でした。バイクの試乗などでスロットルを吹かす人もおり、エンジン音が「うるさいな」などと思ってました。まそか、その3年後自分が中古車のCB50を買いにここまで来るとは全く想像できません。

発車15分ぐらい前に、電気機関車に押された、青色の列車がゆっくり入ってきました。冷房がついた車両なので、飛び上がって喜びました。山手線でさえ、冷房車が来るとラッキーだった時代です。その列車のドアが開き、中に入っても僕たち2人以外にはおじさんがひとりだけ。そのおじさんも途中で降り、結局その車両にずっと乗ってたのは僕たち2人だけ。

16:16定刻の発車です。チャイムが流れ車掌の案内が始まります。仙台とか盛岡など、各駅の到着時刻を聞いていると、本当に北海道へ向け旅立ったとの実感が湧いてきました。早速、母のつくってくれたおにぎりを食べようとしたところ、陽のあたるホームに2時間以上置きっぱなしだったためか、異臭があり食べられません。早めに食べておくべきでした。母には悪いのですが、列車のごみ箱に捨てました。その代わりに何を食べたかは覚えてません。

この列車は常磐線経由。水戸あたりまでは明るかったような気がします。車窓で覚えているのは、新松戸駅付近の、武蔵野線と交差するインターチェンジのような線路があったことぐらいで、その次の記憶は暗くなった平駅のホームに降りてみると雷雲が光ってたこと。多分前日はよく寝てないため、ウトウトしていたんでしょう。その「平」って駅はもうありません。今では当たり前になってる「いわき」の昔の駅名です。

次の記憶は仙台。もうすぐ仙台との案内があると、それまで真っ暗だった外にポツポツと街灯が見えはじめ、次第に街中となってきました。22時過ぎだったでしょうか、仙台駅に到着しホームに出てみると、さかんに工事をしてたのを覚えてます。今考えると、多分東北新幹線の新設工事だった思います。仙台を発車すると深夜、到着直前まで社内を暗くするとの案内があり、その後極端に照明が暗くなりました。一瞬何も見えなくなりましたが、暫く経つと普通の明るさと感じるようになりました。

その先、深夜にもかかわらずどこかの駅で駅弁を買い食べたことと、どこかの駅のホームいっぱいに風鈴が吊ってあったことを覚えてます。青函連絡船の乗船名簿を車内でいつもらったかは記憶にありませんが、書き終えた名簿をもって、青森駅のホームに降り立ちました。

朝の4時ごろだったでしょうか、まだ空は真っ暗でした。僕たちは「青函連絡船のりば」の案内に従い、桟橋へと続く跨線橋の階段を登りはじめました。
13:17 | '76.08北海道 | comments (1) | trackbacks (0) | edit | page top↑

急行 すずらん

青函連絡船「摩周丸」が青森駅(港)を出航して3時間。函館への入港はまだ先ですが、下船口に並び始める人が増えていきます。僕たちはめずらしさで、デッキと船室とを行ったり来たり。まだ北海道は見えてきません。空は曇り空。寒くはありませんが昨日の東京の暑さが嘘のようです。

はるか前方に北海道らしき陸地が見えてきました。しばらくして定刻での到着を告げる案内放送があり、僕たちも下船口へ向います。すると既に長蛇の列です。何故だかよく分からず列の後ろに並びます。もうすぐ待ちに待った北海道への上陸。

船が動かなくなってすぐ、並んでる行列がゆっくり動き出しました。まもなく僕たちは函館駅(北海道)に足を踏み入れました。とうとう北海道まできた思うまもなく、下船した人たちはみんな走りだしてます。何故かわからず、僕たちも重い荷物を持って走り出しました。走りながら、これは列車の席をとるためだと気づき、必死で走りました。

函館駅構内は大変広く、長い跨線橋の先の階段をくだり、はるか先にホームが見えたと思ったら、列車はもっと先に停車してるじゃありませんか。目指す列車は、急行すずらん。室蘭本線経由札幌から釧路へ向う気動車です。(僕の記憶によると)僕たちはその日昭和新山ユースホステルに泊まるため、急行すずらんに乗って洞爺まで行くつもりです。列車の先頭車両で、なんとか4人掛けボックス席の窓側2席をとることができました。10分ぐらい、早い呼吸が「はあはあ」止まりませんでした。

発車時間となり、ディーゼルエンジンの音が急に高まって、列車はゆっくり動き出します。いくつかポイントをゴトゴトと渡り、その後スピードが出てきました。初めて目にする北海道の景色の中を走ります。駅をでると市街地はすぐに過ぎて草原っぽいなかを走るようになりました。緑一面の草原のなか、名も知らない紫の花がチラホラ咲いてます。その草原のなかポツリポツリ建っている家の屋根が鋭角で、日ごろ見ている日本の景色とは違います。遠いところへ来たもんだと思いました。

車窓から、姿の美しい山が見えてきました。駒ケ岳です。同じ火山ですが、今までみたことがある富士山とか桜島とかとは違う、かっこいい山だと思いました。なにか北海道っぽいですね。多分、大沼公園のとセットで見たはずですが、そのときの湖は記憶にありません。

駒ヶ岳が後方へ過ぎ去ると列車は、海岸沿いを走るようになります。その海は噴火湾。曇天のためでしょうか、その海に駒ケ岳ほどの印象はありません。しばらくして列車は「長万部」に停車しました。この駅の読み方は、難読のため返って有名で、以前から僕も知ってました。ここで列車は函館本線をはなれ、室蘭方面へ向かいます。

降りる駅の洞爺にまもなく到着との放送があり、網棚から荷物を降ろし、デッキに向います。駅に到着して降りてみると、いつもまにか青空で日もさしてます。停車時間はごくわずか、僕たちが降りるとすぐにエンジン音が高まり紫の薄い煙を残して、急行すずらんは行ってしまいました。降りた人は僕たちを含め10人ほど、僕たちはゆっくり改札口へ向いました。
13:18 | '76.08北海道 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

昭和新山

洞爺の駅についたときは快晴でした。改札口を出ると洞爺湖行きのバスが待っていて、そのバスで洞爺湖畔まで。始めて観る北海道の湖、洞爺湖。中央には島がある典型的なカルデラ湖。何を食べたか覚えてませんが、洞爺湖バスターミナルの前の食堂でお昼ご飯を食べ、それからボートを借りて湖水に乗出しました。

透き通るような青空と、深い蒼の湖水。風はなく音もなく。空を仰ぎ、流れる白い綿のような雲を眺めます。昨日まで居た横浜が嘘のよう。乾いた空気と色の鮮やかさ。北海道は違う世界だと思いました。

洞爺湖畔のバスターミナルからその日宿泊する昭和新山ユースホステルへは、かなり距離があります。普通は昭和新山行きのバスを利用するのでしょうが、まだ日は高く、チェックインの3時にはまだ早いので湖畔を歩いて行くことにしました。弟とふたりで湖を観ながら歩きます。

暫く歩くとゴーカート場がありました。その誰もお客さんのいないゴーカート場で弟と一緒に1周、僕だけでもう1周。幼稚園の遠足で多摩テックに行って以来、僕はゴーカートに目がありません。

結局、ゆっくり歩いて1時間も掛からず昭和新山ユースに到着。まだ時間は早かったので、僕たちはユースのレンタサイクルで昭和新山へサイクリング。

湖畔を走るのは快適でしたが、途中から上り坂。チャリを押して歩きましたが、風が爽やかだったことしか覚えてません。よほど爽快だったのでしょう。昭和新山は、小学校の国語の教科書で習って知ってましたが、実際に観るとその大きさにビックリしました。

畑が盛り上がりいつの間にか山になった火山とは思えません。それも個人所有の山だとか。三松正夫さんという方が持ち主だそうで、早朝洞爺湖畔を散歩してると杖をついて髭をはやした老人、三松さんに会えるかも。とユースのヘルパーさんが云ってました。

それから有珠山のロープウェーに乗って有珠山中腹へ。洞爺湖が箱庭にように観えるパノラマでした。行ったのが遅かったのか、帰りのロープウェーは最終便。ユースへ戻り、早速温泉に入りました。ここは壮瞥温泉と云うそうです。昨日は夜行列車、熱い温泉に浸かって、ことのほかさっぱりしました。

このユースは僕が会員になって2泊目。最初は1年ほど前に泊った伊東ユース。ここ北海道はその時の伊東とはパワーが違います。全国から夏の北海道に集まってきてる若者のパワー。それはもうすごいと、中学生だった僕は思います。ミーティングのゲームとか。

22時頃がユースの就寝時間。ユース特有のスリーピングスーツに包まれて2段ベッドに入ります。ウトウトしてると、同室のふたりがお金計算と明日の予定を栃木弁で話し合ってます。なんとも眠気を誘うホノボノとした会話でした。

23:03 | '76.08北海道 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

日高本線

昭和新山ユースの朝は、普通より早い朝食で始まりました。同じような人たちと乗り合いタクシーで洞爺駅へ向かい、早い列車に乗るためです。昨日と違う、今にでも雨が降りそうな空のした、ユース前から満員のタクシーに乗ると、洞爺駅まではあっという間に到着。

駅についた僕たちは、早速改札口に並びます。何故かみんな並んでいたからです。大都会圏以外の駅では、列車が来ないと改札が始まらないということを初めて知りました。改札が始まりホームで待ってると、ディーゼル機関車を先頭に数両の古い客車の札幌行き普通列車がやってきました。

ドアを手で開けて車内に入ると、誰もいない木造のボックスシートが並んでます。改札口に並ぶ必要など全くありません。そのひとつに僕たちは腰掛け、網棚に荷物をのせると列車は発車。その後、僕はいつの間にか寝入ってしまい、どのぐらい時間が経ったのか目が覚めた時は東室蘭に停車中。周りを見ると車内は超満員でした。

それから列車が走り出すと、再びウトウト。降りなければならない苫小牧駅に近づくと、何故か目が覚めました。列車を降りて苫小牧駅前に出てみます。海岸まで歩こうかとも思いましたが駅前の地図でみると海岸は工場地帯。海が見られるのかどうか分からないので、駅前にあった大型スーパーに入ります。たしか、「ヨークマート」。時間は10時の開店直後、何故か地下のファストフードコーナーでカレーライスを食べました。

日高本線の苫小牧発、様似行きディーゼルカーが発車したのは11時すぎだったと思います。僕たちは駅弁を買ってガラガラのディーゼルカーに乗りこみました。それはタラコ色の2両編成。

天気は朝から曇りで時々観える海は鉛色。この列車には3時間以上乗ってたような気がします。鉛色の海、霧のため乳白色になった草原が記憶に残りました。その草原は、今考えると競走馬を育ててる牧場だったと思います。

様似に到着したときは既に夕方。駅前からは国鉄バスです。日高本線の終点についてディーゼルカーを降りてみると結構たくさんお客さんが居ました。襟裳岬行きのバスは1台では全員座りきれず、2台目のバスがすぐにやってきて、僕たちはそれに乗りました。

すぐに海沿いの道を走り出します。右手の太平洋を見ると鉛色ですが、空と海との境界線は雲が無く明るくなってます。明日は晴れの予感。僕たちは襟裳岬まで行かず、えりも町でおりました。ニコニコ旅館というユースホステルを予約してました。ユースに着き、夕食まではまだまだ時間がありました。散歩でもすれば良かったのですが、ずっとマンガの単行本を読んで過ごしました。

翌日は真っ蒼な空。最高の天気。国道沿いのバス停で、襟裳岬行きのバスを待ちます。

バスに乗ると、観光案内がテープで流れてます。山本コータロー&ウイークエンドの「岬めぐり」が流れてました。確かに、ここ襟裳岬を知って是非行ってみたいと思ったのは、当然森進一の「襟裳岬」ですが、何故か「岬めぐり」がビッタシ合うところ。
「襟裳岬」は吉田拓郎の作品であることはあとから知りました。

襟裳岬は、日高山脈が太平洋に沈んでいくところ。と紹介されてましたが、正にその通り。山脈が海に消えていくところに迫力があり、人などは近づけない荒涼とした風景でした。

20:29 | '76.08北海道 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

広尾線

日高山脈が太平洋へ沈み込む襟裳岬の景色を観たあとは、国鉄バスで広尾線の広尾駅へ向かいます。超快晴のその日、バスは満員でしたが車窓からは綺麗な太平洋の蒼い海が望めました。その浜は百人浜といいます。バスの車内のテープによる観光案内では、なんでも江戸時代の船が難破して百人以上の溺死体が打ち上げられた浜だとか。

その先の海沿いの国道は黄金道路と云います。日高山脈の断崖絶壁と太平洋との隙間の海岸線に道路をつくったため、風雪や波の被害のため年中補修。お札を敷き詰めて作ったぐらいお金が掛かる道なので、黄金道路という名がつきました。

襟裳岬から1時間ほどで広尾駅前に到着。バスから降りた人たちは真っ先に改札口に並びます。帯広行きの広尾線の列車に座るためです。昨日の洞爺や苫小牧で改札が始まる前に並んだ経験から、「並ばなくても絶対座れる」と思いました。特にすることはありませんが、僕たちは並ばずに待合室のベンチで改札が始まるのを待ちました。改札が始まってびっくり、帯広行きのディーゼルカーはたった1両。僕たちは帯広までの長い道のりをデッキで立ってることに。

広尾線は当時、「幸福から愛国行き」の切符で有名でした。幸福駅も愛国駅も駅前は観光客でいっぱい。混んでるディーゼルカーのデッキから、ちょっとだけその光景が見えました。そのディーゼルカーが帯広に到着したのは昼過ぎ。駅にある日本食堂でカレーライスを食べました。当時の主だった駅には必ず日本食堂があり、全国的に同じメニューで営業してました。あまり美味しくなかったのを覚えてます。

帯広駅前からは然別湖畔行きの十勝バスです。そのバスは十勝平野をひたすら北へ走ります。その広い平野が終わったところから、道はダートになりました。大型バスは十人もいない乗客を乗せて、その狭い砂利道をゆっくり登っていきます。その砂利道を登りきったところにあるのが扇ヶ原の展望台。そこでバスは10分の休憩。バスから降りて展望台から見た十勝平野は、それはもう広大で、まさに北海道っていう景色でした。

それからバスは山道を暫く走り、然別湖畔の大きなホテル前に到着。僕たちは往復はがきで予約してあった然別湖畔ユースに。そのユースのPさんは当時、国鉄のOB。ミーティングでは昔の蒸気機関車時代の話をしてくれました。そのPさんの勧めで、翌日はユースでお弁当を作ってもらい、湖畔の反対側へハイキングに行くことに。

翌日も快晴。朝食を終えた僕たちはユースに荷物を預かってもらい、湖の遊覧船に乗ります。対岸の入江で遊覧船をおりて20分ほど原生林のなかを歩くと、素晴らしい湖が現れました。東小沼と云います。(別名東雲湖というのは後から聞きました) 真っ蒼で小さな湖の向こうは草原のような熊笹の斜面。その上にも蒼い空と白い雲。この世の光景とは思えない景色。行ったことはありませんが、何となくカナダのようだと思いました。ほんとに感動しました。

それから僕たちは湖畔の船着き場に戻り、遊覧船でユースのある湖畔に戻りました。途中にもう一か所停まった小さな桟橋では、山田温泉ユースを出発するホステラーへのヘルパーさんたちの盛大なお見送り。そのパワーにも圧倒されました。

11:51 | '76.08北海道 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

十勝平野と雌阿寒岳

然別湖畔発の阿寒湖畔行きのバスは一日に2便。確か阿寒バス。僕たちはその午後の便に乗ります。乗客は僕たち二人だけ。バスは然別湖畔を発車すると、昨日と同じ砂利道を暫く行きます。幌鹿峠を越えて糠平湖、それから士幌線に沿って南下して上士幌。ここからは十勝平野を横断して足寄、阿寒へと走ります。

バスはときどき休憩しながら走り続けます。観光案内のテープも流れました。3時間ぐらいバスに乗ってた記憶があります。十勝平野は広いもんだと思いました。僕たちがバスを降りたのは阿寒湖畔のかなり手前、オンネトーとの分岐点。そこで降りてオンネトー行きのバスを待ちます。そのあたりは一面蕗の原野。僕たちの背丈よりも高い、まるで傘のような蕗が至る所に生えてます。実際に傘のように蕗をさし、歩いてる旅人もいました。

やってきたオンネトー行きのバスに乗って10分ほどで雌阿寒温泉に到着。僕たちはここで降ります、バス停の前にある野中温泉ユースの予約をしてました。ここのユースのミーティングはかなりの盛り上がり。僕が経験した中では最高クラス。当時中学生だった僕にはあまり分からない大学生のノリ。というか学生運動とか反戦フォークのノリ?

そのミーティングで、僕は何故か雌阿寒岳登山ハイキングに行くことにしました。朝2時に起きて山頂を目指し、御来光を仰いでユースに戻るというツアーです。

早朝2時に懐中電灯で起こされ、寒い真っ暗ななかでそのツアーは始まりました。延々と歩く山間道。息が上がります。2時間ほど山道を歩き、明るくなってくると廻りに草木はありません。荒涼とした山肌を登っていきます。当時中学生の僕には相当厳しく、みんなから遅れていきます。親切なヘルパーさんが僕に付き添ってくれて、僕はゆっくり自分のペースで登ることができました。体は大きかったのですが、体力はまだ子供。周りの方々には迷惑を掛けました。

遅れてたどり着いた雌阿寒岳の頂上からは曇り空のため御来光は仰げませんでしたが、十勝平野の広大な大地と阿寒の深い森、そしてオンネトーがよく見えました。オンネトーは、そこだけエメラルド色をした鏡のようで、ほんとうに宝石のように見えました。

ユースに戻って入った温泉は最高。体の芯まで温まる硫黄臭の強いその温泉、今でも忘れることができません。ユースを出る時、フロントの脇にあった売店で、僕はお土産に木彫りの熊を買いました。かなり大きいもので2~3千円したと思います。「やっと売れたぜー」といってその売店にいたヘルパーさんは大喜びしてました。

それから僕たちはバスで阿寒湖畔へ。ボートとかにも乗りましたが、長い旅行の疲れか、それに天気も曇りだったためか、あまり感動はありません。襟裳とか東雲湖などを観てきたあとに観光地化された阿寒湖畔はイマイチでした。

阿寒湖畔から発車する、摩周湖・屈斜路湖・美幌峠をまわる観光バスが発車しようとしてます。でも僕たちは旅の疲れか、乗車を見送りました。代わりに乗ったバスは阿寒湖畔発の北見相生経由の美幌行き。北見相生までこのバスで行き、相生線で美幌へ向かうつもり。でもバスが発車すると僕たちは爆睡し、終点の美幌駅で運転手さんに起こされました。

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